P--749 P--750 P--751 #1尊号真像銘文 #2本 尊号真像銘文 本 大無量寿経言 設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹 謗正法[文] 大無量寿経言と いふは 如来の四十八願を ときたまへる経也 設我得仏といふは もしわれ 仏を え たらむときといふ 御ことはなり 十方衆生といふは 十方の よろつの 衆生といふ也 至心信楽といふ は 至心は 真実とまふすなり 真実とまふすは 如来の 御ちかひの 真実なるを 至心と まふすなり  煩悩具足の衆生は もとより 真実の心なし 清浄の心なし 濁悪邪見の ゆへなり 信楽といふは 如来 の本願 真実に ましますを ふたこゝろなく ふかく信して うたかはされは 信楽とまふす也 この至 心信楽は すなわち 十方の衆生をして わか真実なる 誓願を信楽すへしと すゝめたまへる 御ちかひ の 至心信楽也 凡夫自力のこゝろには あらす 欲生我国と いふは 他力の 至心信楽の こゝろをも て 安楽浄土に むまれむと おもへと也 乃至十念と まふすは 如来のちかひの 名号を となえむこ とを すゝめたまふに &M010174;数の さたまりなきほとを あらはし 時節を さためさることを 衆生に し P--752 らせむと おほしめして 乃至のみことを 十念のみなに そえて ちかひ たまへるなり 如来より 御 ちかひを たまはりぬるには 尋常の 時節を とりて 臨終の 称念を まつへからす たゝ 如来の  至心信楽を ふかくたのむへしと也 この真実信心を えむとき 摂取不捨の 心光に いりぬれは 正定 聚の くらゐに さたまると みえたり 若不生者 不取正覚と いふは 若不生者は もしむまれすはと いふ みこと也 不取正覚は 仏に ならしと ちかひたまへる みのり也 このこゝろは すなわち 至 心信楽を えたるひと わか浄土に もし むまれすは 仏に ならしと ちかひたまへる 御のり也 こ の本願の やうは 唯信抄に よくゝゝ みえたり 唯信とまふすは すなわち この真実信楽を ひとす ちに とるこゝろを まふす也 唯除五逆 誹謗正法といふは 唯除といふは たゝのそくといふ ことは 也 五逆のつみひとを きらい 誹謗の おもき とかを しらせむと也 このふたつの つみの おもき ことを しめして 十方一切の衆生 みなもれす 往生すへしと しらせむとなり 又言 其仏本願力 聞名欲往生 皆悉到彼国 自致不退転と 其仏本願力といふは 弥陀の本願力と まふ す也 聞名欲往生といふは 聞といふは 如来の ちかひの御なを 信すとまふす也 欲往生といふは 安 楽浄刹に むまれむと おもへとなり 皆悉到彼国といふは 御ちかひのみなを信して むまれむと おもふ 人は みな もれす かの浄土に いたると まふす 御こと也 自致不退転といふは 自は おのつから といふ おのつからといふは 衆生の はからいに あらす しからしめて 不退のくらゐに いたらしむ P--753 となり 自然といふことは也 致といふは いたるといふ むねとすといふ 如来の本願のみなを 信する 人は 自然に 不退の くらゐに いたらしむるを むねとすへしと おもへと也 不退といふは 仏に か ならす なるへき みと さたまる くらゐ也 これ すなわち 正定聚の くらゐに いたるを むねと すへしと ときたまへる 御のりなり 又言 必得超絶去 往生安養国 横截五悪趣 悪趣自然閉 昇道無窮極 易往而無人 其国不逆違 自然之 所牽[抄出] 必得超絶去 往生安養国と いふは 必は かならすといふ かならすといふは さたまりぬといふ こゝ ろ也 また 自然といふ こゝろ也 得は えたりといふ 超は こえてといふ 絶は たちすて はなる といふ 去は すつといふ ゆくといふ さるといふ也 娑婆世界を たち すてゝ 流転生死を こえ  はなれて ゆきさるといふ也 安養浄土に 往生を うへしと也 安養といふは 弥陀を ほめたてまつる  みことと みえたり すなわち 安楽浄土也 横截五悪趣 悪趣自然閉といふは 横は よこさまといふ  よこさまといふは 如来の願力を 信するゆへに 行者のはからいに あらす 五悪趣を 自然に たちす て 四生を はなるゝを 横といふ 他力とまふす也 これを 横超といふ也 横は 竪に対する ことは 也 超は 迂に 対することは也 竪は たゝさま 迂は めくるとなり 竪と 迂とは 自力聖道の こ ゝろ也 横超は すなわち 他力真宗の 本意也 截といふは きるといふ 五悪趣の きつなを よこさ P--754 まに きる也 悪趣自然閉といふは 願力に 帰命すれは 五道生死を とつるゆへに 自然閉といふ 閉は  とつといふ也 本願の業因に ひかれて 自然に むまるゝ也 昇道無窮極といふは 昇は のほるといふ  のほるといふは 無上涅槃に いたる これを 昇といふ也 道は 大涅槃道也 無窮極といふは きわま りなしと也 易往而無人といふは 易往は ゆきやすしと也 本願力に 乗すれは 本願の 実報土に む まるゝこと うたかひなけれは ゆきやすき也 無人といふは ひとなしといふ 人なしといふは 真実信 心の人は ありかたき ゆへに 実報土に むまるゝ人 まれなりとなり しかれは 源信和尚は 報土に  むまるゝ人は おほからす 化土に むまるゝ人は すくなからすと のたまへり 其国不逆違 自然之所 牽といふは 其国は そのくにといふ すなわち 安養浄刹なり 不逆違は さかさまならすといふ たか はすといふ也 逆は さかさまといふ 違は たかふといふ也 真実信を えたる人は 大願業力の ゆへ に 自然に 浄土の業因 たかはすして かの業力に ひかるるゆへに ゆきやすく 無上大涅槃に のほ るに きわまりなしと のたまへる也 しかれは 自然之所牽と まふすなり 他力の 至心信楽の 業因 の 自然に ひくなり これを 牽といふ也 自然といふは 行者の はからいに あらすとなり 大勢至菩薩御銘文 首楞厳経言  勢至獲念仏円通 大勢至法王子 与其同倫 五十二菩薩 即従座起 頂礼仏足 而白仏言 我憶往昔 恒河沙劫 有仏出世 P--755 名無量光 十二如来 相継一劫 其最後仏 名超日月光 彼仏教我 念仏三昧{乃至} 若衆生心 憶仏 念仏  現前当来 必定見仏 去仏不遠 不仮方便 自得心開 如染香人 身有香気 此則名曰 香光荘厳 我 本因地 以念仏心 入無生忍 今於此界 摂念仏人 帰於浄土{已上略出} 勢至獲念仏円通と いふは 勢至菩薩 念仏を えたまふと まふすことなり 獲といふは うるといふこと はなり うるといふは すなわち 因位のとき さとりを うるといふ 念仏を 勢至菩薩 さとりうると  まふすなり 大勢至法王子 与其同倫といふは 五十二菩薩と 勢至と おなしき ともと まふす 法王 子と その菩薩と おなしき ともと まふすを 与其同倫と いふなり 即従座起 頂礼仏足 而白仏言 と まふすは すなわち 座よりたち 仏の 御あしを礼して 仏に まふして まふさくとなり 我憶往 昔といふは われ むかし 恒河沙劫の かすのとしを おもふと いふこゝろ也 有仏出世 名無量光と  まふすは 仏世にいてさせ たまひしと まふす 御ことはなり 世にいてさせ たまひし 仏は 阿弥陀 如来なりと まふす也 十二光仏 十二度 世にいてさせたまふを 十二如来 相継一劫と まふすなり  十二如来と まふすは すなわち 阿弥陀如来の 十二光の御名なり 相継一劫といふは 十二光仏の 十 二度 世にいてさせたまふを あひつくといふ也 其最後仏 名超日月光と まふすは 十二光仏の 世に いてさせたまひし おはりの仏を 超日月光仏と まふすと也 彼仏教我 念仏三昧と まふすは かの最 後の 超日月光仏の 念仏三昧を 勢至には おしえ たまふとなり 若衆生心 憶仏念仏といふは もし  P--756 衆生心に 仏を憶し 仏を念すれは 現前当来 必定見仏 去仏不遠 不仮方便 自得心開といふは 今生 にも 仏をみたてまつり 当来にも かならす 仏を みたてまつるへしとなり 仏も とおさからす 方 便おもからす 自然に 心にさとりを うへしと也 如染香人 身有香気といふは かうはしき気 みにあ る人のことく 念仏の こゝろもてる人に 勢至のこゝろを かうはしき人に たとえまふす也 このゆへ に 此則名曰 香光荘厳と まふすなり 勢至菩薩の 御こゝろのうちに 念仏のこゝろを もてるを 染 香人に たとえまふす也 かるかゆへに 勢至菩薩のたまはく 我本因地 以念仏心 入無生忍 今於此界  摂念仏人 帰於浄土と いへり 我本因地と いふは われもと 因地にしてといへり 以念仏心といふは  念仏の心をもてといふ 入無生忍といふは 無生忍に いるとなり 今於此界といふは いまこの娑婆界に してと いふ也 摂念仏人といふは 念仏の人を 摂取してといふ 帰於浄土といふは 念仏の人 おさめ とりて 浄土に 帰せしむと のたまへるなりと 龍樹菩薩御銘文 十住毘婆沙論曰 人能念是仏 無量力功徳 即時入必定 是故我常念 若人願作仏 心念阿弥陀 応時為現身 是故我帰命[文] 人能念是仏 無量力功徳と いふは ひとよく この仏の 無量の功徳を 念すへしとなり 即時入必定と いふは 信すれは すなわちの とき 必定に いるとなり 必定に いるといふは まことに 念すれは P--757 かならす 正定聚の くらゐに さたまるとなり 是故我常念と いふは われ つねに 念するなり 若 人願作仏といふは もし人 仏に ならむと 願せは 心念阿弥陀といふ 心に 阿弥陀を 念すへしとな り 念すれは 応時為現身と のたまへり 応時といふは ときに かなふといふなり 為現身と まふす は 信者のために 如来の あらわれ たまふなり 是故我帰命と いふは 龍樹菩薩の つねに 阿弥陀 如来を 帰命し たてまつるとなり 婆藪般豆菩薩論曰 世尊我一心 帰命尽十方 無礙光如来 願生安楽国 我依修多羅 真実功徳相 説願偈 総持 与仏教相応 観彼世界相 勝過三界道 究竟如虚空 広大無辺際と 又曰 観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海 婆藪般豆菩薩論曰と いふは 婆藪般豆は 天竺のことはなり 晨旦には 天親菩薩とまふす また いま は いはく 世親菩薩と まふす 旧訳には 天親 新訳には 世親菩薩と まふす 論曰は 世親菩薩  弥陀の本願を 釈し あらはし たまへる御ことを 論といふ也 曰は こゝろを あらはす ことはなり  この論おは 浄土論といふ また往生論といふ也 世尊我一心といふは 世尊は 釈迦如来なり 我とまふ すは 世親菩薩の わかみと のたまへる也 一心と いふは 教主世尊の 御ことのりを ふたこゝろな く うたかひなしとなり すなわち これまことの 信心也 帰命尽十方 無礙光如来と まふすは 帰命 は 南無なり また 帰命とまふすは 如来の 勅命に したかふ こゝろ也 尽十方無礙光如来とまふすは  P--758 すなわち 阿弥陀如来なり この如来は 光明也 尽十方といふは 尽は つくすといふ ことゝゝくとい ふ 十方世界を つくして ことゝゝく みちたまへるなり 無礙といふは さわることなしと也 さわる ことなしとまふすは 衆生の 煩悩悪業に さえられさる也 光如来と まふすは 阿弥陀仏なり この如来 は すなわち 不可思議光仏とまふす この如来は 智慧の かたちなり 十方微塵刹土に みちたまへる なりと しるへしとなり 願生安楽国といふは 世親菩薩 かの無礙光仏を 称念し 信して 安楽国に  むまれむと ねかひ たまへるなり 我依修多羅 真実功徳相といふは 我は 天親論主の われとなのり  たまへる 御ことは也 依は よるといふ 修多羅に よるとなり 修多羅は 天竺のことは 仏の経典を  まふす也 仏教に 大乗あり また 小乗あり みな 修多羅とまふす いま 修多羅とまふすは 大乗 なり 小乗には あらす いまの 三部の 経典は 大乗修多羅也 この三部大乗に よるとなり 真実功 徳相といふは 真実功徳は 誓願の尊号なり 相は かたちと いふことは也 説願偈総持といふは 本願 の こゝろを あらはすことはを 偈といふなり 総持といふは 智慧なり 無礙光の 智慧を 総持と  まふすなり 与仏教相応といふは この浄土論のこゝろは 釈尊の教勅 弥陀の誓願に あひかなへりとな り 観彼世界相 勝過三界道といふは かの安楽世界を みそなわすに ほとり きわなきこと 虚空のこ とし ひろく おほきなること 虚空のことしと たとへたるなり 観仏本願力 遇無空過者といふは 如 来の本願力を みそなわすに 願力を 信するひとは むなしく こゝに とゝまらすと也 能令速満足  P--759 功徳大宝海といふは 能は よしといふ 令は せしむといふ 速は すみやかに としといふ よく 本 願力を 信楽する人は すみやかに とく 功徳の大宝海を 信する人の そのみに 満足せしむる也 如 来の功徳の きわなく ひろく おほきに へたてなきことを 大海の みつの へたてなく みちみてる か ことしと たとへ たてまつるなり 斉朝曇鸞和尚真像銘文 釈曇鸞法師者 并州&M017168;水県人也 魏末高斉之初 猶在 神智高遠 三国知聞 洞暁衆経 独出人外 梁 国天子蕭王 恒向北 礼鸞菩薩 註解往生論 裁成両巻事 出釈迦才三巻浄土論也[文] 釈の曇鸞法師は并州の&M017168;水県の人也 并州は くにのなゝり &M017168;水県は ところの なゝり 魏末高斉之初 猶在といふは 魏末といふは 晨旦の世のなゝり 末は すゑといふ也 魏の世のすゑとなり 高斉之初は  斉といふ世のはしめといふ也 猶在は 魏と斉との世に なほ いましきといふ也 神智高遠といふは 和 尚の智慧すくれて いましけりと也 三国知聞といふは 三国は魏と 斉と 梁と このみつの 世におは せしと也 知聞といふは みつの世に しられ きこえたまひきと也 洞暁衆経といふは あきらかに よ ろつの 経典を さとり たまふと也 独出人外といふは よろつの 人に すくれたりと也 梁国の天子 といふは 梁の世の王といふ也 蕭王のなゝり 恒向北礼といふは 梁の王つねに 曇鸞の 北のかたに  ましましけるを 菩薩と 礼し たてまつり たまひける也 註解往生論といふは この浄土論を くわし P--760 ふ 釈したまふを 註論とまふす 論を つくりたまへる也 裁成両巻といふは 註論は 二巻に なした まふ也 釈迦才の三巻の浄土論といふは 釈迦才とまふすは 釈といふは 釈尊の 御弟子と あらはす  ことは也 迦才は 浄土宗の 祖師也 智者にて おはせし人也 かの聖人の 三巻の浄土論を つくりた まへるに この曇鸞の 御ことは あらはせりとなり 唐朝光明寺善導和尚真像銘文 智栄讃善導別徳云 善導 阿弥陀仏化身 称仏六字 即嘆仏 即懺悔 即発願廻向 一切善根 荘厳浄土[文] 智栄とまふすは 震旦の聖人也 善導の別徳を ほめたまふていはく 善導は 阿弥陀仏の 化身也と の たまへり 称仏六字といふは 南無阿弥陀仏の 六字を となふるとなり 即嘆仏といふは すなわち 南 無阿弥陀仏を となふるは 仏を ほめたてまつるに なると也 また 即懺悔といふは 南無阿弥陀仏を  となふるは すなわち 無始より このかたの 罪業を 懺悔するに なるとまふす也 即発願廻向といふ は 南無阿弥陀仏を となふるは すなわち 安楽浄土に 往生せむと おもふに なる也 また 一切衆 生に この功徳を あたふるに なると也 一切善根荘厳浄土といふは 阿弥陀の 三字に 一切善根を  おさめ たまへる ゆへに 名号を となふるは すなわち 浄土を 荘厳するに なると しるへしと  也と智栄禅師 善導を ほめたまへるなり P--761 善導和尚云 言南無者 即是帰命 亦是発願 廻向之義 言阿弥陀仏者 即是其行 以斯義故 必得往生[文] 言南無者と いふは すなわち 帰命とまふす みことは也 帰命は すなわち 釈迦弥陀の 二尊の 勅 命に したかひて めしに かなふと まふす ことはなり このゆへに 即是帰命と のたまへり 亦是 発願 廻向之義といふは 二尊の めしに したかふて 安楽浄土に むまれむと ねかふこゝろなりと  のたまへる也 言阿弥陀仏者と まふすは 即是其行となり 即是其行は これすなわち 法蔵菩薩の 選 択本願也と しるへしとなり 安養浄土の 正定の業因なりと のたまへる こゝろ也 以斯義故といふは  正定の因なる この義をもての ゆへにと いえる御こゝろ也 必は かならすといふ 得は えしむとい ふ 往生といふは 浄土に むまるといふ也 かならすといふは 自然に 往生をえしむと也 自然といふ は はしめて はからはさるこゝろなり 又曰 言摂生増上縁者 如無量寿経 四十八願中説 仏言若我成仏 十方衆生 願生我国 称我名字 下至 十声 乗我願力 若不生者 不取正覚 此即是願往生行人 命欲終時 願力摂得往生 故名摂生増上縁[文] 言摂生増上縁者と いふは 摂生は 十方衆生を 誓願に おさめ とらせ たまふと まふす こゝろ也  如無量寿経 四十八願中説と いふは 如来の 本願を ときたまへる 釈迦の御のりなりと しるへしとなり  若我成仏とまふすは 法蔵菩薩 ちかひたまはく もし われ 仏を えたらむにと ときたまふ 十方衆 P--762 生といふは 十方のよろつの衆生也 すなわち われらなり 願生我国といふは 安楽浄刹に むまれむと  ねかへと也 称我名字と いふは われ仏をえむに わかなを となえられむと也 下至十声といふは 名 字を となえられむこと しも とこゑ せむものと也 下至といふは 十声に あまれるものも 聞名の ものをも 往生に もらさす きらはぬことを あらはし しめすと也 乗我願力といふは 乗は のるへ しといふ また 智也 智といふは 願力にのせたまふと しるへしと也 願力に 乗して 安楽浄刹に  むまれむと しる也 若不生者 不取正覚と いふは ちかひを 信したる人 もし 本願の 実報土に  むまれすは 仏に ならしと ちかひ たまへるみのり也 此即是願往生行人といふは これ すなわち  往生を ねかふ人といふ 命欲終時といふは いのち おはらむとせむときといふ 願力摂得往生といふは  大願業力摂取して 往生を えしむと いへるこゝろ也 すてに 尋常のとき 信楽を えたる人といふ也  臨終のとき はしめて 信楽決定して 摂取に あつかるものには あらす ひころ かの心光に 摂護せ られ まいらせたるゆへに 金剛心を えたる人は 正定聚に 住するゆへに 臨終のときに あらす か ねて 尋常のときより つねに 摂護して すてたまはされは 摂得往生と まふす也 このゆへに 摂生 増上縁と なつくる也 また まことに 尋常のときより 信なからむ人は ひころの 称念の功に よりて  最後臨終のとき はしめて 善知識の すゝめにあふて 信心を えむとき 願力摂して 往生を うるも のも あるへしと也 臨終の来迎を まつものは いまた 信心を えぬものなれは 臨終を こゝろに  P--763 かけて なけくなり 又曰 言護念増上縁者{乃至} 但有専念 阿弥陀仏衆生 彼仏心光 常照是人 摂護不捨 総不論照摂 余 雑業行者 此亦是 現生護念増上縁[文] 言護念増上縁者といふは まことの 心を えたる人を このよにて つねに まもりたまふと まふすこと は也 但有専念 阿弥陀仏衆生といふは ひとすちに ふたこゝろなく 弥陀仏を 念したてまつると ま ふす也 彼仏心光 常照是人といふは 彼はかのといふ 仏心光は 無礙光仏の 御こゝろとまふす也 常 照は つねに てらすとまふす つねにと いふは ときを きらはす 日をへたてす ところを わかす  まことの 信心ある人おは つねに てらし たまふと也 てらすといふは かの仏心の おさめ とりたま ふと也 仏心光は すなわち 阿弥陀仏の 御こゝろに おさめたまふと しるへし 是人は 信心を え たる人也 つねに まもり たまふとまふすは 天魔波旬に やふられす 悪鬼悪神に みたられす 摂護 不捨し たまふゆへ也 摂護不捨といふは おさめまもりて すてすと也 総不論照摂 余雑業行者といふ は 総は すへてといふ みなといふ 雑行雑修の人おは すへて みな てらし おさめ まもりたまは すと也 てらし まもりたまはすと まふすは 摂取不捨の 利益に あつからすと也 本願の行者に あ らさる ゆへ也と しるへし しかれは 摂護不捨と 釈したまはす 現生護念 増上縁といふは このよ にて まことの 信ある人を まもりたまふとまふす みこと也 増上縁は すくれたる 強縁となり  P--764 皇太子聖徳御銘文 御縁起曰 百済国聖明王太子阿佐礼曰 敬礼救世 大慈観音菩薩 妙教流通 東方日本国 四十九歳 伝 灯演説[文] 新羅国聖人日羅礼曰 敬礼救世 観音大菩薩 伝灯東方 粟散王[文] 御縁起曰といふは 聖徳太子の 御縁起也 百済国といふは 聖徳太子 さきの世に むまれさせたまひた りける くにの名なり 聖明王といふは 百済国に 太子の わたらせ たまひたりけるときの そのくに の 王の名也 太子阿佐礼曰と いふは 聖明王の太子のなゝり 聖徳太子を こひ したひ かなしみ  まいらせて 御かたちを 金銅にて いまいらせたりけるを この和国に 聖徳太子 むまれて わたらせ  たまふと きゝまいらせて 聖明王わかこの阿佐太子を 勅使として 金銅の救世 観音の像を おくり  まいらせしとき 礼しまいらすとして 誦せる文也 敬礼救世 大慈観音菩薩と まふしけり 妙教流通  東方日本国と まふすは 上宮太子仏法を この和国に つたえ ひろめおはしますと也 四十九歳といふ は 上宮太子は 四十九歳まてそ この和国に わたらせたまはむすると 阿佐太子まふしけり おくられ たまへる 金銅の救世菩薩は 天王寺の 金堂に わたらせたまふなり 伝灯演説と いふは 伝灯は 仏 法を ともしひに たとえたる也 演説は 上宮太子 仏教を とき ひろめ ましますへしと 阿佐太子  まふしけり P--765 又 新羅国より 上宮太子を こひ したひ まいらせて 日羅と まふす 聖人 きたりて 聖徳太子を  礼し たてまつりて まふさく 敬礼救世 観音大菩薩と まふすは 聖徳太子は 救世観音にて おはし ますと 礼し まいらせけり 伝灯東方とまふすは 仏法を ともしひにたとえて 東方とまふすは この 和国に 仏教のともしひを つたえおはしますと 日羅まふしけり 粟散王とまふすは このくには きわ めて 小国なりといふ 粟散と いふは あわつふを ちらせるか ことく ちひさき くにの 王と 聖 徳太子の ならせ たまひたると まふしける也と P--766 #2末 尊号真像銘文 末 首楞厳院源信和尚の銘文 我亦在彼 摂取之中 煩悩障眼 雖不能見 大悲無惓 常照我身[文] 我亦在彼 摂取之中と いふは われ また かの摂取の なかに ありと のたまへる也 煩悩障眼と  いふは われら 煩悩に まなこ さえらるとなり 雖不能見と いふは 煩悩のまなこにて 仏を みた てまつること あたはすと いゑともと いふ也 大悲無惓といふは 大慈大悲の 御めくみものうきこと  ましまさすと まふすなり 常照我身といふは 常は つねにといふ 照は てらし たまふといふ 無礙 の光明 信心の人を つねに てらし たまふとなり つねに てらすといふは つねに まもり たまふ と也 我身は わかみを 大慈大悲 ものうきことなくして つねに まもりたまふと おもへと也 摂取 不捨の 御めくみの こゝろを あらわしたまふ也 念仏衆生 摂取不捨のこゝろを 釈し たまへるなり と しるへしとなり 日本源空聖人真影 P--767 四明山 権律師 劉官讃 普勧道俗 念弥陀仏 能念皆見 化仏菩薩 明知称名 往生要術 宜哉源空 慕 道化物 信珠在心 心照迷境 疑雲永晴 仏光円頂 建暦壬申三月一日 普勧道俗 念弥陀仏と いふは 普勧は あまねく すゝむと也 道俗は 道に ふたりあり 俗に ふた りあり 道のふたりは 一には 僧 二には 比丘尼なり 俗にふたり 一には 仏法を 信し行する男也  二には 仏法を 信し 行する 女也 念弥陀仏とまふすは 尊号を 称念すると也 能念皆見 化仏菩薩 とまふすは 能念は よく名号を 念すと也 よく 念すと まふすは ふかく信する也 皆見といふは  化仏菩薩を みむと おもふ人は みな みたてまつる也 化仏菩薩と まふすは 弥陀の化仏 観音勢至 等の 聖衆なり 明知称名と まふすは あきらかにしりぬ 仏のみなを となふれは 往生すといふこと を 要術と すといふ 往生の要には 如来のみなを となふるに すきたることは なしと也 宜哉源空と  まふすは 宜哉は よしといふ也 源空は 聖人の御名也 慕道化物といふは 慕道は 無上道を ねかひ  したふへしと也 化物といふは 物といふは 衆生也 化は よろつのものを 利益すと也 信珠在心とい ふは 金剛の信心を めてたき たまに たとへたまふ 信心のたまを こゝろに えたる人は 生死のやみ に まとはさるゆへに 心照迷境と いふ也 信心のたまを もち 愚痴の やみを はらひ あきらかに  てらすと也 疑雲永晴といふは 疑雲は 願力を うたかふこゝろを くもに たとへたる也 永晴といふ P--768 は うたかふこゝろの くもを なかく はらしぬれは 安楽浄土へ かならす むまるゝ也 無礙光仏の  摂取不捨の 心光をもて 信心を えたる人を つねに てらし まもりたまふゆへに 仏光円頂と いへ り 仏光円頂といふは 仏心をして あきらかに 信心の人の いたゝきを つねに てらしたまふと ほ めたまひたる也 これは 摂取したまふ ゆへなりと しるへし 比叡山延暦寺 宝幢院黒谷源空聖人真像 選択本願念仏集云 南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本[文] 又曰 夫速欲離生死 二種勝法中 且閣聖道門 選入浄土門 欲入浄土門 正雑二行中 且抛諸雑行 選応 帰正行 欲修於正行 正助二業中 猶傍於助業 選応専正定 正定之業者 即是称仏名 称名必得生 依仏 本願故[文] 又曰 当知生死之家 以疑為所止 涅槃之城 以信為能入[文] 選択本願念仏集と いふは 聖人の御製作也 南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本といふは 安養浄土の  往生の正因は 念仏を 本と すとまふす 御こと也と しるへし 正因といふは 浄土に むまれて 仏 にかならす なるたねと まふすなり またいはく 夫速欲離生死といふは それ すみやかにとく 生死を はなれむと おもへと也 二種勝法 中 且閣聖道門といふは 二種勝法は 聖道 浄土の 二門也 且閣聖道門は 且閣は しはらく さしお P--769 けと也 しはらく 聖道門を さしおくへしと也 選入浄土門といふは 選入は えらひて いれと也 よ ろつの 善法のなかに えらひて 浄土門に いるへしと也 欲入浄土門といふは 浄土門に いらむと  おもはゝといふ也 正雑二行中 且抛諸雑行といふは 正雑二行 ふたつのなかに しはらく もろゝゝの  雑行をなけすて さしおくへしと也 選応帰正行といふは えらひて 正行に 帰すへしと也 欲修於正行  正助二業中 猶傍於助業といふは 正行を 修せむと おもはゝ 正行助業 ふたつのなかに 助業を さ しおくへしと也 選応専正定といふは えらひて 正定の業を ふたこゝろなく 修すへしと也 正定之業 者 即是称仏名といふは 正定の業因は すなわち これ 仏名を となふる也 正定の因といふは かな らす 無上涅槃の さとりを ひらく たねと まふす也 称名必得生 依仏本願故といふは 御名を 称 するは かならす 安楽浄土に 往生を うる也 仏の本願に よるか ゆへなりと のたまへり またいはく 当知生死之家といふは 当知は まさに しるへしと也 生死之家は 生死のいゑといふ也  以疑為所止と いふは 大願業力の 不思議を うたかふこゝろをもて 六道四生 二十五有十二類生[類生 者]{一卵生 二胎生 三湿生 四化生 五有色生 六無色生 七有相生 八無相生 九非有色生 十非無色生 十一非有相生 十二非無相生}に とゝまると也 いまに ひさしく 世にまよふとしる へしと也 涅槃之城と まふすは 安養浄刹を いふ也 これを 涅槃のみやことは まふすなり 以信為 能入と いふは 真実信心を えたる人の 如来の本願の 実報土に よくいると しるへしと のたまへ る みことなり 信心は 菩提の たねなり 無上涅槃を さとる たねなりと しるへしとなり  P--770 法印聖覚和尚の銘文 夫根有利鈍者 教有漸頓 機有奢促者 行有難易 当知 聖道諸門 漸教也 又難行也 浄土一宗者 頓教 也 又易行也 所謂真言止観之行 &M020788;猴情難学 三論法相之教 牛羊眼易迷 然至我宗者 弥陀本願 定行 因於十念 善導料簡 決器量於三心 雖非利智精進 専念実易勤 雖非多聞広学 信力何不備{乃至} 然我大 師聖人 為釈尊之使者 弘念仏一門 為善導之再誕 勧称名一行 専修専念之行 自此漸弘 無間無余之勤 在今始知 然則破戒罪根之輩 加肩入往生之道 下智浅才之類 振臂赴浄土之門 誠知無明長夜之大灯炬也 何悲智眼闇 生死大海之大船筏也 豈煩業障重{略抄} 夫根有利鈍者といふは それ衆生の 根性に 利鈍ありとなり 利といふは こゝろの とき人なり 鈍と いふは こゝろの にふき人なり 教有漸頓といふは 衆生の根性に したかふて 仏教に 漸頓ありと也 漸は やうやく 仏道を 修して 三祇百大劫をへて 仏に なるなり 頓は この娑婆世界にして この みにて たちまちに 仏に なると まふす也 これ すなわち 仏心 真言 法華 華厳等の さとりを ひらくなり 機有奢促者といふは 機に 奢促あり 奢は おそき こゝろなるものあり 促は ときこゝ ろなるものあり このゆへに 行有難易といふは 行につきて 難あり 易ありと也 難は 聖道門 自力 の行也 易は 浄土門 他力の行なり 当知聖道諸門 漸教也と いふは すなわち 難行也 また 漸教 也と しるへしと也 浄土一宗者と いふは 頓教なり また 易行なりと しるへしと也 所謂真言止観 P--771 之行といふは 真言は 蜜教なり 止観は法華なり &M020788;猴情難学といふは この世の人のこゝろを さる のこゝろに たとえたるなり さるのこゝろのことく さたまらすとなり このゆへに 真言法華の行は  修しかたく 行しかたしと也 三論法相之教 牛羊眼易迷といふは この世の仏法者の まなこを うし  ひつしの まなこに たとえて 三論法相宗等の 聖道自力の 教には まとふへしと のたまへる也 然 至我宗者と いふは 聖覚和尚の のたまはく わか浄土宗は 弥陀の本願の 実報土の 正因として 乃 至十声 一声称念すれは 無上菩提に いたると おしえ たまふ 善導和尚の 御おしえには 三心を具 すれは かならす 安楽に むまると のたまへるなりと 聖覚和尚の のたまへるなり 雖非利智精進と いふは 智慧もなく 精進のみにも あらす 鈍根懈怠のものも 専修専念の信心を えつれは 往生すと  こゝろうへしと也 然我大師聖人といふは 聖覚和尚は 聖人を わか大師聖人と あおき たのみ たま ふ 御ことはなり 為釈尊之使者 弘念仏之一門といふは 源空聖人は 釈迦如来の 御つかいとして 念 仏の一門を ひろめたまふと しるへしとなり 為善導之再誕 勧称名之一行といふは 聖人は 善導和尚 の 御身として 称名の 一行を すゝめたまふなりと しるへしと也 専修専念之行 自此漸弘 無間無 余之勤といふは 一向専修と まふす ことは これより ひろまると しるへしとなり 然則破戒罪根之 輩 加肩入往生之道といふは 然則は しからしめて この浄土のならひにて 破戒無戒の人 罪業ふかき もの みな往生すと しるへしと也 下智浅才之類 振臂赴浄土之門といふは 無智無才のものは 浄土門 P--772 に おもむくへしとなり 誠知無明長夜之大灯炬也 何悲智眼闇といふは 誠知は まことにしりぬといふ  弥陀の誓願は 無明長夜の おほきなる ともしひなり なむそ 智慧のまなこ くらしと かなしまむや と おもへと也 生死大海之大船筏也 豈煩業障重といふは 弥陀の願力は 生死大海の おほきなる ふ ね いかた也 極悪深重の みなりと なけくへからすと のたまへるなり 倩思教授恩徳 実等弥陀悲 願者といふは 師主の おしえを おもふに 弥陀の悲願に ひとしと也 大師聖人の 御おしえの恩おも く ふかきことを おもひしるへしと也 粉骨可報之摧身可謝之といふは 大師聖人の御おしえの 恩徳の  おもきことを しりて ほねを こにしても 報すへしとなり 身を くたきても 恩徳を むくうへしと 也 よくゝゝ この和尚の このおしえを 御覧し しるへしと 和朝愚禿釈親鸞正信偈文 本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就 如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言 能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味 摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇 獲信見敬得大慶 即横超截五悪趣[文] 本願名号正定業といふは 選択本願の行といふ也 至心信楽願為因といふは 弥陀如来廻向の真実信心なり  この信心を 阿耨菩提の 因と すへしと也 成等覚証大涅槃といふは 成等覚といふは 正定聚の くら P--773 ゐ也 このくらゐを 龍樹菩薩は 即時入必定と のたまへり 曇鸞和尚は 入正定之数と おしえたまへ り これは すなわち 弥勒の くらゐと ひとしと也 証大涅槃とまふすは 必至滅度の願成就の ゆへ に かならす 大般涅槃を さとるとしるへし 滅度と まふすは 大涅槃也 如来所以興出世といふは  諸仏の世にいてたまふ ゆへはと まふす みのり也 唯説弥陀本願海とまふすは 諸仏の世にいてたまふ  本懐は ひとへに 弥陀願海一乗の みのりを とかむとなり しかれは 大経には 如来所以 興出於世  欲拯群萌 恵以真実之利と ときたまへり 如来所以 興出於世は 如来とまふすは 諸仏と まふす也 所 以といふは ゆへといふ みこと也 興出於世といふは 世に 仏いてたまふと まふすみこと也 欲拯群 萌は 欲といふは おほしめすとなり 拯は すくはむとなり 群萌は よろつの衆生を すくはむと おほ しめすと也 仏の世に いてたまふゆへは 弥陀の御ちかひを ときて よろつの 衆生を たすけ すく はむと おほしめすと しるへし 五濁悪時群生海 応信如来如実言といふは 五濁悪世のよろつの 衆生  釈迦如来の みことを ふかく 信受すへしと也 能発一念喜愛心といふは 能は よくといふ 発は お こすといふ ひらくといふ 一念喜愛心は 一念慶喜の 真実信心 よく ひらけ かならす 本願の実報土 に むまると しるへし 慶喜といふは 信を えてのち よろこふ こゝろをいふ也 不断煩悩得涅槃とい ふは 不断煩悩は 煩悩を たちすてすしてといふ 得涅槃とまふすは 無上大涅槃を さとるを うると  しるへし 凡聖逆謗斉廻入といふは 小聖凡夫 五逆謗法 無戒闡提 みな廻心して 真実信心海に 帰入 P--774 しぬれは 衆水の海にいりて ひとつ あちわいと なるかことしと たとえたるなり これを 如衆水入 海一味といふなり 摂取心光常照護といふは 信心を えたる人おは 無礙光仏の 心光 つねに てらし  まもりたまふ ゆへに 無明の やみはれ 生死の なかきよ すてに あかつきに なりぬと しるへし と也 已能雖破無明闇といふは このこゝろなり 信心を うれは あかつきに なるかことしと しるへ し 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天といふは われらか 貪愛瞋憎を くも きりに たとえて つねに  信心の天に おほえるなりと しるへし 譬如日月覆雲霧 雲霧之下明無闇といふは 日月の くも きり に おほはるれとも やみはれて くも きりの した あきらかなるかことく 貪愛瞋憎の くも きり に 信心は おほはるれとも 往生に さわり あるへからすと しるへしと也 獲信見敬得大慶といふは  この信心を えて おほきに よろこひ うやまふ人といふ也 大慶は おほきに うへきことを えての ちに よろこふといふ也 即横超截五悪趣といふは 信心を えつれは すなわち 横に 五悪趣を きる なりと しるへしと也 即横超は 即は すなわちといふ 信をうる人は ときを へす 日を へたてす して 正定聚の くらゐに さたまるを 即といふ也 横は よこさまといふ 如来の願力なり 他力を  まふすなり 超は こえてといふ 生死の大海を やすく よこさまに こえて 無上大涅槃の さとりを  ひらく也 信心を 浄土宗の 正意と しるへき也 このこゝろを えつれは 他力には 義のなきをもて  義とすと 本師聖人の おほせことなり 義といふは 行者の おの〜の はからふ こゝろなり この P--775 ゆへに おのおのゝ はからふこゝろを もたるほとおは 自力といふ也 よくゝゝ この自力の やうを  こゝろふへしとなり      [正嘉二歳戊午六月廿八日書之]                 [愚禿親鸞]{八十六歳} P--776